道元禅師様の生涯

「道元禅師様について」

道元禅師様は正治二年、西暦でいえば1200年ごろに京都にお生まれになりました。両親は諸説ありますが、父は内大臣久我通親、母は摂政関白藤原元房の娘、伊子であるといわれています。幼少期の名前は文殊丸。文殊様の様な智慧のある子どもになるようにと付けられたといわれております。

 お父様とお母様ともに優れた歌人であり、小さい頃から貴族のエリート教育を受けてきた禅師様。文殊丸の名に勝るとも劣らず、その聡明さで、4歳で中国のとても難しい歌集も読みきっておられたそうです。

 貴族の家庭で、一般庶民に比べれば不自由のない生活を送っていた道元禅師様ですが、3歳でお父様を亡くし、8歳でさらにお母様を亡くすという苦しみに直面します。

 時は、鎌倉時代初期、このままいけば道元禅師様は政治家として公家社会を生き抜いていかなければなりませんでした。

「このどろどろとした政治の世界の中に息子を放り込むことはできない」

 仏教の道に進んで欲しいというのはお母様の遺言であったとも言われています。この母の死によりこの世の無常をいたく感じた道元禅師様は、母を見とった直後から、貪る様に仏教書を読み漁る様になります。幼いながら、その悲しみを忘れようとしていたのかもしれません。

 そして、ついに14歳のとき、天台宗総本山である比叡山にて出家することになります。

 さて、ここで、修行中にある教えに対して疑問をもたれます。

 それは「本来本法性・天然自性身」生まれながらにして仏である。この教えに対して、「ではなぜ人々は戦争をするのか?」という疑問をもつのです。

 その答えを見つけられず、比叡山にもその教えを解決してくれる人はいませんでした。師を探して京都の建仁寺・栄西禅師のもとを訪ねます。この時19歳でした。

 建仁寺の後を継いだ明全和尚に師事し、臨済宗の禅を学ばれますが、これでも若き道元禅師様の疑問を説くことはできませんでした。そして、あの栄西禅師様も真の仏法を求めて中国に渡ったことを受けて、「自分も行ってみたい。真の仏法を学びたい」という思いを抱きます。

 23歳、この時、もはや日本では仏の教えの疑問を解くことは困難と考え、日本を出て、中国に渡ることを決心されます。なぜ、中国かといえば、お釈迦さまがおいでになったインドでは仏教がすでに滅びてしまっていたからです。船で一ヶ月~一ヶ月半やっとの思いでついた中国。しかし、そう簡単に、本当の師と呼べる方には出会うことができませんでした。

 本当の師を探す旅は、中国に渡ってからも続いたのです。たくさんのお寺を回り、ようやく天童山景徳寺でのちに師となる如浄禅師に出会うのです。

 如浄禅師様のもと、坐禅修行の中で、自らの疑問に対する疑問に気付いたのです。

それは「一日一日を、一瞬一瞬を、仏であり続ければ戦争は起こらない。」ということでした。

 中国という異国の地でもとても優秀だった道元禅師は、そこで三年修行し28歳の時正しく仏法が伝わった証である如浄禅師の印可証明を受けました。

 そして、「中国に留まらず、早く日本に帰って教えを広めなさい」という命を受け、日本に帰国します。

 1233年34歳のときに、京都の深草に興聖寺を開き、本格的な僧堂(坐禅堂)を建立し坐禅修行をつづけられるとともに、たくさんの人に坐禅をすすめられました。

 道元禅師の噂が広まるのは早く、道元禅師の教えを求める者がたくさん集ってきました。 しかし、僧団が大きくなるにつれて迫害をうけるようになります。

 また、師である如浄禅師よりの戒め、権力に近づくことなく深山幽谷の山奥に居すべしという言葉通り、権威が蔓延るところを避け、波多野義重公の勧めで越前のこの地に永平寺をお開きになりました。1244年・道元禅師43(44)歳の時でした。この地で正しい仏法を伝える後継者・弟子の育成に勤め最後は京都の地で54歳の生涯を閉じられました。

 亡くなられた時、弟子は15人おりました。そこから、道元禅師様の教えは全国に広まり、寺院数でいえば約1万5千か寺、僧侶は約2万5千人の大規模な宗派となりました。

 この教えは国内にはとどまらず、今や世界各国で求められ僧堂がたてられております。