修証義

修証義

道元禅師(1200~1252AD)の主著「正法眼蔵」中の言句を再編纂したもの。
大内靑巒居士主催の「曹洞扶宗会」が主体となって「洞上在家修証義」を発表、後に永平寺滝谷琢宗禅師と總持寺畔上楳仙禅師、二人の校訂再編を経て「曹洞協会修証義」として1890年(明治23年)に公布された。
と妙の意を明らかにしている。


 

第一章 総 序

(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、 但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、 是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。(第1節)
人身 (にんしん)得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、 已に受け難き人身を受けたるのみに非らず遇ひ難き仏法に値ひ奉れり、 生死の中の善 (しょう)、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。(第2節)
無常 (たの) み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、 命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずこへか去りにし、尋ねんとす るに蹤跡なし、 (つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、 無常忽ちに到るときは国王大臣親 (じつ) 従僕妻子珍 (ほう)たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。(第3節)
今の世に因果を知らず業報 (ごっぽう) を明らめず、三世を知らず、善悪を (わき)まえざる邪見の党侶 (ともがら)には群す べからず、大凡因果の道理歴然 (れきねん)として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、 豪釐 (ごうり) (たが) わざるなり、 若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。(第4節)
善悪の報に三時あり、一者順現報受(ひとつにはじゅんげんほうじゅ)、ニ者順次生受(じゅんじしょうじゅ) 、三者順後次受(じゅんごじじゅ)、これを三時という、仏祖の道を修習(しゅじゅう)するには、其最初より斯三時の業報(ごっぽう)の理を(なら)(あき)らむ るなり、○爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、 悪道に堕ちて長時の苦を受く。(第5節)
○当に知るべし今 (じょう)の我身二つ無し、三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、 惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、●悪の (ほう)あるべからずと邪思惟するに依 りて●悪の報を感得せざるには非ず。(第6節)

第二章 懺悔 (さんげ)滅罪

○仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生を証入せしめんが為なり、人天誰か入らざらん、 彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受 (きょうじゅ)せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。(第7節)
○然あれば誠心 (じょうしん)を専らにして前仏に懺悔 (さんげ)すべし、恁麼 (いんも)するとき前仏懺悔の功徳力我を拯いて清浄ならしむ、 此功徳能く無礙の浄信精進を生長 (しょうちょう)せしむるなり。浄信一現するとき、自佗 (じた)同じく転ぜらるるなり、其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。( 第8節)
其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我れを愍みて業累を解脱せしめ、 学道障り無からしめ、其功徳法門普く○無尽法界に充満弥綸せらん、哀れみを我に分布すべし、仏祖の往昔 (おうしゃく)は吾等なり、 吾等が当来は仏祖ならん。(第9節)
○我昔所造諸悪業、皆由無始貧瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、 ●心念身儀発露白仏 (びゃくぶつ)すべし、●発露の力罪根をして銷殞 (しょういん)せしむるなり。(第10節)

第三章 受戒入位

 

○次には深く仏法僧の三宝 (さんぼう)をう敬い奉るべし、 (しょう) ()え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、 西天東土仏祖 (しょう)伝する所は恭敬 (くぎょう)仏法僧なり。(第11節)
○若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶ほ聞き奉らざるなり、 (いか) (いわん)や帰依し奉ることを得んや、徒に所逼 (しょひつ)を怖れ て山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、彼は其帰依に因りて衆苦 (しゅく)を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて 衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就 (じょうじゅう)すべし。(第12節)
其帰依三宝とは正に浄心を専らにして或いは如来現在世にもあれ、或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依仏、南無 帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す。僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、 何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。(第13節)
此帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就 (じょうじゅう)するなり、設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し 奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳 (しゃっくるいとく)し、阿耨多羅三藐三菩提 (あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議 なりということ、世尊已に証明 (しょうみょう)しまします衆生当に信受すべし。(第14節)
次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第 二不偸盗 (ちゅうとう)戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酤酒 (こしゅ)戒、第六不説過戒、第七不自讃毀佗 (きた)戒、第八不 (けん)法財戒、第九不瞋恚 (しんい)戒、第十不謗 三宝戒なり、上来三帰三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。(第15節)
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求 (ごんぐ)せざらん、世尊明らかに一切衆生の 為に示しまします、衆生仏戒をう受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大 (がく)に同うし已る、真に是れ諸仏の (みこ)なりと。(第16節)
○諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群 (じょう)の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、 ○是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫 (しょうへきがりゃく)皆仏事を作すを以って、其起す所の風水の利益 (りやく)に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化 (ぶっけ)に冥資せられて (ちか)き悟を顕わす、●是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、●是れ発菩提心なり。 (第17節)

第四章 発願利生

(ほつがんりしょう)
○菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設い在家にもあれ、 設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。 (第18節)
○其形 (いや)しというとも、此心を発せば、已に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流 (にょりゅう)なりとも即ち四衆の導師なり、 衆生の慈父なり、男女 (なんにょ)を論ずること勿れ、此れ仏道極妙の法則なり。(第19節)
若し菩提心を (おこ)して後、六趣四生に輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設い空しく過ごすというとも、 今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて発願すべし、設い仏にな成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚廻らして衆生の成仏得道に回向するなり、 或いは無量劫行いて衆生を先に度して自らは終に仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益 (りやく)するもあり。(第20節)
衆生を利益すというは四枚 (しまい)の般若あり、一者布施、ニ者愛語、三者利行 (りぎょう)、四者同事、是れ即ち薩埵の行願なり、其布施というは貪らざるなり、 我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生の善種となる一銭一草の財をも布施すべし、此世佗世の善根を兆す、法も (たから)なるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業固より布施に非ざること無し。(第21節)
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語 (ごんご)を施すなり、慈念衆生猶如赤子 (ゆうにょしゃくし)の懐いを貯えて言語するは愛語なり、 徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏 (ごうぶく)し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、 (むか)いて愛語を聞くは (おもて)を喜ばしめ、 心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。(第22節)
利行というは貴賤の衆生に於きて利益の善巧 (ぜんぎょう)を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単に利行に催さるるなり、 愚人 (おも)わくは利佗を先とせば自らが利省れぬべしと、爾には非ざるなり、利行は一法なり、普ねく自佗を利するなり。(第23節)
○同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、○佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗を同ぜしむる道理あるべし、自佗は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり。(第24節)
大凡菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ、●済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん●功徳を礼拝恭敬すべし。(第25節)

第五章 行持報恩

○此発菩提心、多くは南閻浮 (なんえんぶ)人身 (にんしん)に発心すべきなり、今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。(第26節)
○静かに憶うべし、正法世に流布せざらん時は、身命を正法の為に抛捨せんことを願うとも値うべからず、正法に逢う今日の吾等を願うべし、見ずや、仏の言わく、無上菩提を演説する師に値わんには、種姓を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うること莫れ、但般若を尊重するが故に、日日 (にちにち)三時に礼拝し、恭敬 (くぎょう)して、更に患悩の心を生ぜしむること莫れと。(第27節)
今の見仏聞法は仏祖面面の行持より来れる慈恩なり、仏祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん、一句の恩尚報謝すべし、一法の恩尚報謝すべし、況や正法眼藏無上大法の大恩これを報謝せざらんや、病雀尚恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚恩を忘れず、余不の印能く報謝あり。畜類尚恩を報ず、人類争か恩を知らざらん。(第28節)
其報謝は余外の法は中るべからず、唯当に日日 (にちにち)の行持、其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑 (なおざり)にせず、私に費やさざらんと行持するなり。(第29節)
光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも (もろ)し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる、徒に百歳生けらんは恨むべき日月 (じつげつ)なり、悲しむべき形骸なり、設い百歳の日月は声色 (しょうしき)の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成 (げんじょう)し、諸仏の○大道通達するなり、然あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。(第30節)
○謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり、是れ 即心是仏なり、即心是仏というは●誰というぞと審細に参究すべし、●正に 仏恩を報ずるにてあらん。(第31節)